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宝和園の歴史江戸時代から現在まで

更新日:2023年10月25日




1.始まりは江戸時代


宝和園の歴史は、江戸時代は宝暦年間(1750年代)、静岡県佐野郡掛川町掛川で初代・岡本忠助が創業した問屋「マルヲ岡本商店」に端を発しています。 問屋と申しましても、まだお茶を飲む習慣の広まっていなかった当時のこと。茶葉を仕入れて売るのではなく、茶樹の苗(当時茶樹は家の間を仕切る垣根代わりに使われていました)や茶樹が付けた実から油を抽出し販売していたといいますから、今日の茶問屋と比べると隔世の感があります。

2.明治時代に状況一変

ところが明治時代に入ると状況は一変します。職を失った武士たちが掛川から東の台地に入り茶園作りに励み、現在日本一大規模な茶園として知られる牧の原大茶園を拓いたのです。こうして増産が進み商品として出回るようになるにつれ、緑茶は開国間もない日本の輸出品として国際的な注目を集めるようになりました。 この当時、明治22年(1889年)=横浜港開港の折、若干12歳にして横浜の米問屋で修行を積んでいた6代目店主=岡本熊太郎は(1877~1953)は、横浜港のにぎわいを見て驚嘆し、これからは茶の輸出が伸びると直感しました。その後何度か港に足を運ぶうちに、茶の輸出に乗り出す決意を固めた熊太郎は、静岡掛川に舞い戻り、茶農家からお茶を買い集めては東海道線の列車で横浜へ送るという仕事に没頭しました。 この頃はまだ道路も整備されておらず自動車も普及しておりませんから、新茶の時期になると毎朝暗い内から、背に摘んだばかりの茶葉のどっさり入った籠を背負った茶農家の人々が、お茶を売ろうと列をなして岡本家までやって来たといいます。もちろん、当時はまだ製茶工場の規模も小さく、輸出するため大量にお茶を揃えるのは大変だったろうと想像します。(この新茶の時期、熊太郎は疲れた体に活力を与えるために毎日欠かさず浜名湖のうなぎを食べたと聞いています)。 熊太郎はこうして農家から譲り受けたお茶を横浜港からアメリカやシベリアなどに輸出。本格的な海外向け茶卸業に乗り出しました。その出来の良さから私共の茶葉は国際的に高い評価を受け、輸出高も年々飛躍的に増大。日本全体で見ても、お茶は生糸と並ぶ日本の輸出の主要品目となるほどの大成長を遂げました。 輸出したお茶がどのように飲まれていたかについては、祖母の言葉を懐かしく思い出します。「この時分アメリカで飲まれていたっつって緑茶に砂糖と牛乳いっぱい入れた甘いお茶飲んだっけねぇ」。

3.昭和の技術革新と成長

その後、第二次世界大戦が勃発し、終戦後お茶は統制品目となりました。そうした中、岡本家の仲太郎・良平(当社元役員)・常蔵(現店主の父)3兄弟が7代目を継ぎ、統制組合の組合員として活躍。戦前の茶葉輸出事業に加えて、国内向けの茶葉卸業にも本格的に乗り出しました。 以後、日本経済が飛躍的な成長を遂げる中で、掛川も国内有数の茶産地となり、茶の栽培技術・製茶技術の革新も飛躍的に進みました。岡本家も、今でこそ全国に知られている掛川発祥「深蒸し製法」を昭和40年(1965年)頃から広めていきました(その結果掛川は深蒸し茶の里として広く知られるようになり、深蒸し茶の品質と生産量日本一を誇るまでになりました)。

4.そして現在

もちろん掛川と並んで私共も成長を続けております。契約茶農家と共に有機栽培の生産をはじめ、自社工場にも最新の製茶機と衛生設備を導入、ペットボトルのお茶から最高級の煎茶に至る品揃えも拡大いたしました。その結果、日本・世界中から「安心で美味しいお茶」と高いご評価をいただくようになり、今では八代目となります私(岡本義明)の作るお茶は、有名日本茶専門店・大手百貨店・スーパーにまで並び、たくさんの皆様にお愉しみいただけるようになりました。 このように静岡茶の歴史を築く一端を担ってきた私共ですが、その伝統の上に胡坐をかくようなことはいたしません。これまでお値打ちな小売価格でご提供させていただくことの難しかった最高級茶や、そもそも需要が未知数であるため正式に商品化されることのなかった創作茶をお客様に直接お届けしようと立ち上げたのが、こちらの「宝和園通信販売サイト」です。 どうか皆様、何卒ご愛顧・ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。

八代目店主・岡本義明

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